いやはや、またしても行き過ぎた責任追及が社会常識になってしまいそうで、
社会風潮の流れに嫌悪感を覚えました。確かに、『原爆投下はしょうがない』
の発言は、軽率であった事は間違いないでしょう。しかし、抗議はともかく、
罷免・辞職の要求は行き過ぎではないでしょうか?
原爆投下の是非において、社会で一つの結論に達していたかと言えば、そうではないように
思います。ならば、『しょうがない』 とする声は一見解であり、一個の思想信条として扱われ
るべきだと思います。もちろん、それをどういう立場の人が、どういう場所で言ったかの点も
問題点として重要です。ですが、一見解として成立する以上、原則、やはり思想の一つと
して扱わねばならないのではないでしょうか?
まして、本人は、『そんなつもりではなく、捉えられ方が不本意である』 とした上、誤解を招い
た点と心情の酌量の点で軽率だった事は、速やかに詫びています。それでも尚、許すことなく、
執拗に責任を糾弾し、辞職までを望むという事は、まるで、些細な過失に腹を立て、謝っても
尚、尻を追い廻し、殴ってやらねば気がスマンと言わんばかりの人間的性質ではないでしょうか?
下手をすれば、これからは、大臣の名前が付く人は、例え、可能性や選択の一つを列挙する
においても、心情を損ねる方向の話を口にさえ出来なくなるかも知れません。
これって、言論の自由を冒涜していることにならないでしょうか?
原爆投下についての是非を個人が自由に語れるのは、言論の自由というものの上に成り立っ
ているのに、その言論の自由を蔑ろにするような社会風潮を築いて良いのでしょうか? 抗議だ
けなら口封じにはなりませんが、罷免・辞職の要求は、言論の自由を冒涜しているように思え
てなりません。
もし、久間大臣が自説に執着し、『「しょうがない」は、私の思想信条である。それを批判して
もらうのは、迷惑千万』 と言っていたなら、その役職に就いている事が適正かどうかの審判を
受けなければならなくなるでしょう。裏を返せば、
そう言っていたかどうかが、罷免・辞職を考えるに当たっての必要な条件
と、言う事になるだろうと思います。ですから、その条件を満たしていない今回は、
社会風潮として
日本人の人間的性質として
社会に必要な一理念として
考えかたの方向性として(国民の手本として)
これらを守るために辞職して欲しくなかったです。
理念無き懲悪観念では、その行為に歯止めが掛からず、どこまでも懲悪する事が正しいと
されてしまいます。その懲悪観念が言論の自由というものの中で、理念を組み合わせて、
生み出されているのに、その理念の産みの親まで潰してしまっては、新しい理念が生み出され
なくなってしまう恐れがあります。
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私は無党派層です。政策は支持しても、政党・政治家は支持しません。与党(自民党・公明党)
の肩をもつ理由は全くありません。しかし、野党の近頃の動き方には、嫌悪感を感じることばかり多く、
かの 『産む機械』 発言での執拗な糾弾が全く反省に活かされていない事に、腹立たしさすら覚え
ます。参院選は、無党派層の票がどうなる事やら・・・(^^;)
政治家に求める資質は、如何なる理念を持っているかという点が、国民側の見方として
重要だと思います。もう少し冷静になって、事の有り様を評価するべきではないでしょうか?
TVでおばあちゃんが一言、『あんなのは(批判している方の)揚げ足取りだよ』 と言っていた
のが印象的でした。冷静に考えられる人が少数派になりつつあるのが悲しいです(^^;)
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追記
政治家に必要な能力として、罷免・辞職の要求をしてよい条件を考え出せているかが大切である
ということです。今の野党には、その能力が感じられないという話でもあります。
条例で、御堂筋が全面禁煙地帯になったようですが、これも『考え方がなんだかな〜』 っと思います。
私はタバコの煙が苦手なので助かるのですが、条例には納得行きません。地域指定ではなく、行為
指定であるべきだと思います。
世の中、放って置けないのは、悪事よりも善行の暴走のように思えます。悪事が是認される事は、
この先もないでしょうが、善行の暴走は既に始まってます。漠然と感じ取っているだけでは、反証
しにくい問題だから、自制の考えが重要になるのだと思います。悪事の自制なんて当たり前の話
でしかないですからネ。善行推奨も、自制の考えで、妥当性の自己反証をして欲しいものです。
2007年07月05日
久間発言における社会風潮
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